「オリジナリティに溢れる」「手作りの」ツアーで、憧れ北イタリアへ Part 2!!
Part 1ではスロー・シティのレヴァント(Levanto)を紹介しました。いよいよ今回は、井上ひさしの『ボローニャ紀行』に感銘を受けた、都市再生モデルのボローニャ(Bologna)をレポートします!日本では、人口の都市集中や過疎化により小さな町や村は衰退しています。ボローニャはどのような取り組みで街を保存・再生しているのでしょうか?街の散策に加え、市役所の職員からのレクチャーを交えながら、街の魅力を私達なりの目線で紹介しつつ、この町から学べることを探りたいと思います。
ボローニャの街並み |
1)Part 1の復習ですが・・・
創造都市(Creative Cities)とは、「文化や芸術、産業・経済の調和が取れている都市」です。経済的豊かさだけでなく、その土地の文化(デザインや音楽、食文化など)とマッチしていることが必要とされます。ボローニャでは、文化継承や都市計画は、行政主導ではなく、市民の「地区評議会」をベースに、市民の意見を上へ上へと挙げていき、行政と市民との協議により決定されていきます。当然のことながら、市民の積極的な参加が求められることになります。2)ボローニャのロケーション
下の地図でも分かるように、ボローニャは、北イタリアの魅力溢れる3都市フィレンツェ(Florence)、ミラノ(Milan)、ヴェネチア(Venice)をつなぐ要処に位置しています。フィレンツェ(Florence)から北東約110キロ、ミラノからは南東約210キロ、ヴェネツィア(Venice)から南西約160キロに位置しています。車だけでなく、鉄道でのアクセスも便利です。3ボローニャ:街の様子・人々の暮らし・食文化
歴史的・文化的建造物
ボローニャは、イタリア国内だけでなく、ヨーロッパへの交通の拠点としての役割を担ってきました。13世紀には南北ヨーロッパを結ぶ交易の街として栄え、中世以来、街のシンボルとなってきたポルティコ(柱廊)が建物と建物をつないでいます。「都市と都市」を、「建物と建物」を、そして文化の保全や街づくりの「人と人」を、時代を超えて結びつける街だなんて、なんて素敵なんでしょう!ボローニャ出身の画家ジョルジョ・モランディが離れることができなかったという街を、私達ツーリストも感じ取りたいと思いました。ポルティコ(柱廊)は、建物の一階部分が通路スペースになっている建築様式です。柱一つ一つや建物のさりげない装飾も趣きがありますが(下の写真)、その起源はボローニャ大学との深いつながりにあります。
世界最古の大学であるボローニャ大学では(1088年創立)、ダンテやコペルニクスなどの偉人たちが教鞭をとったり研究をしており、学問を志す学生たちが、世界各国からボローニャに集まってきました。市民は、急増するその学生たちの住居を確保するために、部屋を路上にはみ出す形で増築し、その補強のために柱を道路に建てました。
都市構造・文化的建造物
下の地図を見てください。ボローニャ中央駅から青い線(主要道路です!)に囲まれたところから外に向かって街が広がっています。また、主要道路の近くには、Porta San Vitale やPorta San Mamolo、Porta San Felice等のPorta(gate;門)があり、11世紀から19世紀まで、街が壁で囲まれていたこと(下の写真)を示しています。壁の撤去後にもPortaを残しながら街の再建をしていったのですね!青線に囲まれた場所にある、歴史的・文化的建造物が街を物語ってくれます。ボローニャ駅から、中央のマジョーレ広場に向かってインディペンデンツァ通りを歩き、興味深い場所を紹介しながら、Biblioteca Salaborsa(サラボルサ図書館、元株式取引所)で市役所の方から伺った「ボローニャ方式」都市計画・再現について説明を加えます。
城壁の名残り |
Theatro Arena del Solo |
インディペンデンツァ通りから東3本めのピエッラ通り(Via Piella)では、ヴェネチアに匹敵する「水の都」であった当時のボローニャを垣間見ることができます。Porta Govese 門を通って北に戻った、運河沿いにあるLa Piccola Venezia(写真)は、運河が街の発展に重要な役割を担っていたことを示しています。
16世紀にはボローニャ市内に上のような運河が張り巡らされ、その水力エネルギーを利用した製糸業が発展し、ヨーロッパ有数の絹織物生産地となっていきました。
この写真は、「ボローニャ方式」の街保存・再建を表していると言えます。それぞれの住宅が快適であること(現代の利器であるエアコンがついています!)と昔ながらの出窓や小窓といった歴史・文化的要素が共存しています。また、住居の一階部分にお店などが入っていますが、これも「ボローニャ式」社会システムの一つです。
色とりどりの壁と木枠の窓 |
歴史を感じさせ、見事に保存されている旧市街地(写真)ですが、その裏には市議会そして市民の絶え間ない努力があります。
第二次世界大戦後、再復興を図る上で大きな問題となったのは、市街地の貧困でした。「保存して修復」するという方針に基づき、市議会が中心となり、建築物の特徴研究を初め、ベストな修復・保存方法が徹底的に調査・研究されました。修復する財力のない市民のものは市で買い上げて活用するなど、市民の住居を保障したまま、どちらにもメリットがあるような修復・保全を行っていったという歴史があります。
マッジョーレ広場(Piazza Maggiore)の南、ネプチューンの噴水(Fontana del Nettuno)を通りすぎると、マッジョーレ広場はもうすぐそこです。
サン・ペトロニオ大聖堂 Basilica di Sam Petronio |
都市計画・開発
(Biblioteca Salabors (ボローニャ市立サラボルサ図書館)で市役所の方からの話
まず、サラボルサ図書館は100年ほど前から使われていた証券取引所を全面改装し、現在は「知の広場」としての図書館として再利用している施設です。市と市民の意見交換の場としても機能しています。一歩足を踏み入れた途端、ボローニャの取り組みが理解できるといっても過言ではありません。(上のリンクを参照してください)ここは本当に図書館なのか?と疑うようなデザインです。広いエントランス、高い天井、装飾が施された天蓋、そして高窓や天蓋から差し込む陽の光。これほど圧巻な図書館は今までに経験がないほどです。素晴らしい空間を提供するって、その場所に集う人々を輝かせるんですね!
街づくりの取り組みとしては・・・
市壁に囲まれていた(上地図の青線あたり)中世から近世は、安全ですが閉鎖的な都市でした。その後道路に沿ってインフラ整備をし、ローマ時代からの文化遺産・遺跡研究等、保存方法の模索に多くの資本と時間をかけてきました。歴史的・文化的遺産を継承しつつ、市民が充足した生活を送ることができるよう、オープンで魅了的な街づくりをしています。
20世紀後半以降の街の発展に伴い、郊外の住宅計画・整備も行われてきました。住宅地に保育所や図書館等サービス施設を設置し、公共交通機関の整備により街の中心部へのアクセスをよくしたり、緑に囲まれたオープンなスペースを十分に確保するなどです。貧しい人や学生だけでなく、裕福な人も住みたいと思う魅力ある郊外を作り上げました。
最後に・・・
今一番力を入れているのは、地球温暖化対策としての河川対策や緑化政策です。ゲリラ豪雨や河川の氾濫など、世界各地で起こっている自然災害に耐えうるボローニャを目指しています。温暖化など存在しないなどという世界のトップもいますが、対策は十分でしょうか?手遅れになる前に、この「創造都市」から学ぶことは多いと思います。
Santa Maria Della Vita |
旧ボローニャ大学図書館 |
旧ボローニャ大学図書館 |
「食の街、ボローニャ」のマーケット
マジョーレ広場とサント・ステファノ広場の間の「イル・クアドリラテーロ」という界隈は、ギルドがあったところです。良質な食品をゲットできます。また、路地で食事をすることもできます。イタリアのトマトは、あまり熟していない状態で市場にでます。1パック800円ぐらいです。確かに数は多いですが、日本よりちょっと高めですか?
異なる種類のピーチでしょうか?平たくって面白い形です!
スーパーの肉売り場ではなく、お肉屋さんです。日本では最近こういう個人のお肉屋さんを見かけなくなりましたね〜。下の写真は、まさに圧巻です。
膨大な食品中から、上質の食材を選ぶことができます。ギルド時代の内装や家具を保存しているお店もあり、ちょっと圧倒されてしまいそうですが、お店の人は食材選びを助けてくれるので大丈夫です。
モルタデッラソーセージ |
パルマ(左)とトスカーナ(右)のプロシュート(ハム) |
No comments :
Post a Comment